花の季節はいつも暖かさが足りない

盛者必衰というのが浮世の習いなれば、やれあれはもう時代遅れだとか、今年来るのは何だとか、流行の移ろいにはついてゆくのもやっとというのが常でありますが、そんな中にあって千年以上の長きに渡って日本においてブームが続いているものがありまして、それはもう、もったいをつけるまでもなく桜なのです。その花弁が薄桃色のファンシーな佇まいであることや、なにより一気に咲いて儚く散ってゆく期間限定感などが射幸心を昂らせているとも言えますが、現代日本においては春は出会いと別れの季節、何かが終わって何かが始まる、そんな変化に伴う悲喜こもごもが、意識無意識に関わらず桜の映像とともに刷り込まれているせいか、桜を見る度に心のどこかデリケートな柔らかな部分をつつかれているのでしょうか。然るに、もしも年度の始まりが銀杏の落ちるであったならば、そのデリケートな感情は銀杏の匂いとがっちり結合した状態で心に刻み込まれ、かの銀杏の香りも今よりも一層情緒的な何かになったりするのかもと思うこともあります。

さて桜といえば、学生時代に先輩が放った「桜の季節を体験できるのもあと50回とかなんだよ」という言葉が忘れられません。言葉にすればさもありなんというか、なんてことはないような意味あいの言葉ではありますが、それでもなぜかはっとさせられたのは、その先輩が日頃は刹那的に生きているように見受けられたがために突然余命を意識したような言葉に驚いたのかもしれませんし、なにより未来永劫に続くと思われた桜を鑑賞する悦びは自分の人生においては有限だということをはたと思い知らされたからなのかもしれません。