男たちの聖歌

皆様メリークリスマス。
クリスマスも過ぎると今年も残すところ1週間、ついそのことを忘れがちな私たちはクリスマス終わりの余韻に浸りがちですが、パッキャオのワンツーが如く立て続けにくる年の瀬の準備は怠るわけにはいきません。そこへくると欧米人は「…and a happy new year!」でまとめてドン、というあたりはさもありなんといったところですが、我々としては「それはそれ、これはこれ」ということで征く年はきちんとお送りしたいのが日本人のシワッスィー(師走ssy)な歳時記でございましょう。

さて話は翻ってクリスマス、思い起こすのは丁度10年も前のこと、二十歳そこそこの学生だった時分であります。いくら我々が世の中をはすに眺める天邪鬼であろうと、そこは男子学生、クリスマスイブを子女と二人で過ごすというバビロンシステムには、寧ろ積極的に組み込まれたいと願うものでしたが、我々の仲間といえばさながら「寂しん坊たちの社交場」といった体たらくでございましたので、12月ともなれば誰がこのサロンから抜けて仲間を出し抜くのかと、日毎に下がる気温に反比例するかのように緊張感を高めておりました。最後のワンチャンスに賭け駄目元のデートを申し込む者があるかと思えば、早々にレースから降りてしまい、前述の通り足掻く同胞に対して「やめようよ、そういうの」と菩薩顔で言い放つ者もあり、事態はクリスマスイブに向けて混沌の様相を呈してきました。しかして結果はと云いますと、多くの戦士たちは戦いに敗れ我々のサロンに舞い戻り、傷ついた身体を癒しながら終戦を迎えることと相成ったのでした。

中には「向こう側」に行ってしまった仲間もおりまして、そのような友に比べれば確かに我らは負け犬、だがしかし決して狼としての尊厳は失いたくはないものよ、有り体にいえば悔しいから彼女持ちのあいつらに負けないイブを過ごしたいよ!と鼻息を荒くしたものです。かくしてイブに集った男たち若干名、その額には「決戦」と書かれた鉢巻が浮かび上がるかのようでした。

彼女持ちと対抗するにあたり、どんなに男たちだけで楽しく過ごそうとも、後日「いいなー、俺もそっちに行きたかったよー」などと言われようものなら「うるせえバカヤロウ」と憤死は必至、逆説的に「楽しい」の路線では恋人と過ごすクリスマスにはどう逆立ちしても勝てないと判断、結果的に我々のクリスマスのコンセプトは「ストイック」に定まったのです。

場所はいつも溜まり場にしていた友人宅、食事も早々に終えると、おもむろにトランプを取り出し、そこからは夜を徹してのトランプ大会となりました。各々が一様に死んだ目をしながらインディアンポーカーをし、負ける度にクエン酸のタブレット(激酸っぱい)を摂取し健康増進に励むという密教の修行めいた罰ゲームを続けたのです。果ては短パンTシャツ麦わら帽子でコンビニにガリガリ君を買いにいくという無邪気な少年の心を忘れない罰を実行したのは他でもない自分でありました。

斯様にして誰が喜ぶとも知らない罰ゲームの行軍は夜通し続けられたのです。そうして遂に夜が明けました。そうです、我々は勝ったのです。何に勝ったのかは今も謎です。我々は友人宅を飛び出し、勝鬨をあげるべく駅前へと繰り出したのでした。かはたれ時の弱々しい日に照らされた駅前広場には、そこかしこからイブの騒乱を戦い抜いたつわもの達が始発電車を求めて彷徨い出してきたところでした。我々はオヲタちゃん(ロック研究会会長)のギター伴奏に乗って「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を唄いました。日本の夜明けが確かにそこにありました。

アストロボーイの夢の後

先日、緊急地震速報が震度7を警告してみなさまが慌てふためいたところ結果的に誤報だったということで気象庁の方が平身低頭お騒がせしましたっていう映像を何度も見たのですが、まあ確かにお騒がせだったとしても結果的に何もなかったんですしそんなにかりかりすることでもないんではないでしょうか。本当に大地震が来るときにうんともすんとも云わないのに比べたらフェイルセーフとしては正しい方
向なわけですから。

そもそも緊急地震速報も、仮に正常に動作したとて何の役にたつのかしらんと懐疑的な向きもございますが、確かに現状、突然携帯電話がひーよひーよと鳴いたところで我々にできることはほとんどなく、ただただ力をぬいて南無三と唱えるだけでしょうか。しかしローマの道も一歩から、何事も世界の進歩の前には意味のないように思われた努力が必要なものです。およそ無意味かと思われた緊急地震速報の技術が、何時の日かニッポンの地震対策技術の突破口を開いていくことを、そしてそんな時代に自分の孫とこんな会話をすることを、I have a dream。

「おじいちゃん、地震って何?」
「地震というのはな、地面の下のエネルギーが爆発して地面をぐらぐら揺らしてしまう災害のことだよ。今は地震の発生を予測できるから前もって地震のエネルギーを散らしてしまうから地震が起きることはないけれど、昔は地震を防ぐことができなかったから、時に大地震が起きて大変な被害があったんだぞ」
「へー、怖いね」
「その昔は地震を予測することすらできなかったから、いつ地震が来るかもわからなかったんだ」
「ええっ?そんな怖い状況で生活してたの?」
「そうだよ」

こんな未来の妄想はとどまることを知りません。

「おじいちゃんってクルマ運転できるの?」
「昔はみんなクルマを運転したもんだ。今は自動車は目的地を入れれば勝手に走っていくけど、昔はみんな自分で運転しなければ動かなかったんだぞ」
「へー自動車なのに自動じゃないじゃん。」
「そうだな。クルマを運転するときは足でペダルを踏んで速度を調整しながら、ハンドルっていってクルマの向きを変える部分を手で操作しなくてはいけなかったんだぞ。」
「手と足を同時に動かしてたの、難しそう!」

「そういえば、昔はいろいろ不便だったんだぞ。例えば、、、今、暑い時はどうする?」
「えー、暑い時は神経回路をオフにするよ。我慢できないからさ」
「そう、昔は神経を直接オフにするなんてことはできなかった」
「え、そうなの?暑い時はどうしてたの?みんな我慢強かったの?」
「そんなことはないよ。昔の人だって暑い時は暑かった。仕方がないから、エアコンという機械で空気を冷やしていたんだ」
「えー!自分が暑いからって、わざわざ空気を冷やしていたの?なんか凄いムダ
なことしてたんだね…」

かつて一定の権威を持った全ての錬金術師にニュートンが引導を渡したように、私たちを取り巻く当たり前が粗暴で野蛮な前時代的価値観だと云われてしまう、そんな時代がいつか来るかと想い、ふくふくしながら寝ることとしましょう。

君は刻の涙を見る

我が子がこどもちゃれんじという通信教材を受講しています。毎月届く教材の中で、主人公のしまじろうという虎の子が成長しながらしつけを学んだりするのを見て子どもたちもそれに倣って成長するといった類のものですが、この春に幼稚園に入園する我が子のところに来た最新号ではしまじろう君もまた幼稚園に入るという描写がなされておりました。かように受講者たる子どもと足並みを揃えて成長していくしまじろう君ではありますが、はたと思いますのはこの春に幼稚園を卒業したお子様のところに届いた教材においてしまじろう君は卒園児として描かれているわけで、そのご家庭におけるしまじろう君の入園はとうの3年も前の話なのです。すなわちたった今の時点においても新入園児のしまじろう君がいる世界、卒園児としてのしまじろう君がいる世界は並行世界として同時に存在し、更に云えば生まれたばかりの赤ん坊としてのしまじろうのいる世界もあり、学年の数だけ並行世界は生成され続けているわけです。そしてその並行世界の中でしまじろう君は、生まれ成長し幼稚園に入園し卒園してゆくというカルマを繰り返す輪廻の中に身を落としていると言えます。
なにを下らないことを考えるか、そんなこと言っていないで早く歯を磨いて寝ろとおっしゃる御仁もおられるかと思いますがしばしご勘弁を、いやこんなことを思うに至る必然たる理由があるものです。しまじろう君には幼稚園に友だちがおりまして、とりっぴぃ(鳥・男)、みみりん(兎・女)、らむりん(羊・女)にしまじろう君を足した4人(あるいは4匹)が仲良しグループ然と物語を進行しているのを私は記憶しております。記憶しております、といいますのもこの1年ほど前、らむりんがキャラクターの再編、あるいは大人の都合の憂き目にあい、忽然と転校していった事実があるからです。もっともその事実は「既に幼稚園生活が始まっている」しまじろう世界での出来事であり、我が子の接するところのしまじろう世界では昨年時点で幼稚園世界は始まっていないため、その頃しまじろう君はらむりんとは知り合ってすらいません。さて我が子のところのしまじろう君も果たして幼稚園の生活が始まったわけですが、そこには初めて出会うお友達とのファーストコンタクトが待っていることになります。しかしどうでしょう、その仲間たちの中にはらむりんはいないのです。とりっぴぃ、みみりん、そしてその他の賑やかし要員の子どもたち。悲しきかな、一寸年上の稚児のところのしまじろう世界において、幼稚園の友として登場した後に転校というかたちで去っていったらむりん、我が子のところのしまじろう世界においては存在すらしていないのです。繰り返される輪廻の中で、らむりんという幼き羊は解脱を果たし、時空の間隙からするりと抜け出して星になってしまったようです。
春は別れの季節であり、同時に出会いの季節でありますが、輪廻の歪んだ因果律の中で出会わずして別れるという悲しい物語が紡ぎだされてもいたのです。

花の季節はいつも暖かさが足りない

盛者必衰というのが浮世の習いなれば、やれあれはもう時代遅れだとか、今年来るのは何だとか、流行の移ろいにはついてゆくのもやっとというのが常でありますが、そんな中にあって千年以上の長きに渡って日本においてブームが続いているものがありまして、それはもう、もったいをつけるまでもなく桜なのです。その花弁が薄桃色のファンシーな佇まいであることや、なにより一気に咲いて儚く散ってゆく期間限定感などが射幸心を昂らせているとも言えますが、現代日本においては春は出会いと別れの季節、何かが終わって何かが始まる、そんな変化に伴う悲喜こもごもが、意識無意識に関わらず桜の映像とともに刷り込まれているせいか、桜を見る度に心のどこかデリケートな柔らかな部分をつつかれているのでしょうか。然るに、もしも年度の始まりが銀杏の落ちるであったならば、そのデリケートな感情は銀杏の匂いとがっちり結合した状態で心に刻み込まれ、かの銀杏の香りも今よりも一層情緒的な何かになったりするのかもと思うこともあります。

さて桜といえば、学生時代に先輩が放った「桜の季節を体験できるのもあと50回とかなんだよ」という言葉が忘れられません。言葉にすればさもありなんというか、なんてことはないような意味あいの言葉ではありますが、それでもなぜかはっとさせられたのは、その先輩が日頃は刹那的に生きているように見受けられたがために突然余命を意識したような言葉に驚いたのかもしれませんし、なにより未来永劫に続くと思われた桜を鑑賞する悦びは自分の人生においては有限だということをはたと思い知らされたからなのかもしれません。

熱いのが隙

先日、といってもひと月ほど前になってしまいますが、夕時の帰り途に灯油の香りを初観測いたしました。どうしてこうも、嗅覚というのは鼻からはいった感覚をひとおもいに脳髄の知覚の部分に運ばんと、思い出の書棚を寄り道して忘れていたようなナニを引っ張りだすのでしょうか。石油ストーブというものを使わない生活が永くなってきたこともあり、灯油の香りが連れてくる思い出も射程距離がある程度長い、さしずめ熟成がほどよく効いたものになってくるわけで、不意に帰路で浴びせられる思い出には心をさらわれることもしばしばでございます。
 

さて小学生の時分、クラスの男児の間で突如としてベーゴマが流行ったことがありまして、僕らも「生まれは昭和、育ちは平成」な世代ですから、当然ベーゴマなんてものは僕らの世代からしても所謂むかしおもちゃでございます。どういった経緯でベーゴマブームがクラスにもたらされたかはすっかり忘れてしまったものの、休み時間に教室の後ろで紐をまきまき、ブン投げブン投げしていたわけです。平成男児の心をがっちり掴んだのは、何しろあの、ベーゴマのプリミティブさでございまして、武蔵丸とか若花田とか当時の人気力士の名前が彫り込まれた逆円錐の鉄塊を紐一本で操れることは男児のマチズモをくすぐるものでして、その、フィジカルに直結した遊びの体験はゲームボーイなんかじゃ満たされないものだったのであります。
 

自分も若花田のベーゴマを愛用しておりまして、そのコマを手に入れてからは上手く廻せるように特訓の日々、家に帰ってからも巻いては投げ、巻いては投げを繰り返しておりましたが、何しろリビングのフローリングで廻しているあたり、大人になってみれば狼藉千万、大概なやんちゃなわけで、投げ損なえばあらぬ方向に鉄の塊が飛んでいくわけです。壁にぶつかり、扉にぶつかりしたりして、それはもう大人が肝を冷やしていたはずですが、季節はちょうど冬、コマのぶつかる相手の一つに石油ストーブもございました。鉄の八角形の角がストーブのボディに当たりかんかんと音をたて、その口から中を覗くと青白い炎が見えていて、その前にうずくまっていると半ズボンの脚の皮膚の一番表の部分、炎の前にいることでのみ得られるようなひりひりした熱射の感覚。それもまた火を肌で感じる原初の感覚、そうこうしている間にシチューができていたりするのが冬。

日本の、緊張の、夏

社会人になってすぐの頃、とある地方の町に住んでいたことがあります。
そこは農村とまではいかずとも、凡百の田舎町であって、電車が1時間に2本しか走ってなかったりするようなところでありまして、都下の住宅都市で育った身にとってはなかなかに新鮮な心持ちで生活を始めたわけですが、なるほど新しい気づきに巡りあうことも多かったわけでして。

 

夏の日中などに電車に乗りますと、社内には夏休み中の中高生が多くおり、寧ろ大人は大抵クルマ移動ですので電車に乗っているのはほぼ中高生といった様相でした。みな一様にグループごとに固まって車内に散在する中高生のなかでもひときわギラギラついている中学生男子の二人組、片方は白いパンツに黒のタンクトップ、そのタンクトップにはD&Gの文字がついており不遜な態度、片一方もサングラスの蝶番部にやはりD&Gのエンブレムがついている、そんな二人組が我が物顔で座席についておりました。そのドル&ガバの二人は中学の中心人物でしょうか、後から乗ってくる中学生、年の頃でいえば中1くらい、ポケモンが好きそうな少年などが乗車するなりドルとガバに挨拶しにいったりなどし、ああこれが聞きしに及ぶ「地元の先輩イズム」かなどと関心しきりでございました。

 

そんな、セミがじーわじーわと鳴く夏休みも終わりに近づきますと、かの田舎町の駅、夕方などにもじもじとしている男女高校生などがいたりするものです。夏休みのうちに想いを伝えたいと焦りつつも、言葉を継ぐことができずに居心地の悪い空白の時間をごろごろ転がしながら。駅を離れれば、もうお別れなのでしょう、この時間を切り上げてしまえば帰宅しかないがために時間稼ぎをしつつ、いつ事を切り出そうかと半ばうわの空な表情の純朴な男子。社会人にもなりますと季節なんてものは気づけば過ぎ去っていくものですがこのような光景に出くわすと、ああ夏が終わるのだなあ、命短し恋せよ乙女だなあ、と鼻の奥につーんとしたものを覚えるのが大人の嗜みでございますな。

我が家だより:殺虫の慟哭

列島は無事入梅を果たしたわけですが、春です。春といえば生き物がたちまち活発になる季節でありますが、とりわけ虫の活況ぶりが気になるものでして、というのも私、生来より昆虫の類はめっぽう苦手なたちなのです。小学生の時分など、おおかたの男子は昆虫とやたらと愛でていたりするわけで、特にカブトムシなどの強そうな甲虫を育んでいるものは、友人らを集めて「このカブトムシ、触ってもいいよ」などと提案したりしますが、こちらはといえば「別に、触らなくてもいいのだけど…」と思いつつ、まあ縁起物と思って腹の横っちょを親指と人差し指で挟んで持ってみれば、かの甲虫らは脚をもぞもぞと動かして逃れようとするので、その感触が指先から伝わってくるのは何とも言い知れぬ感触で、うんやっぱり自分は昆虫はあまり好きではないのだなと再確認したのでありました。

 

さて先日、ゴミ出しに外に出たところで隣人に声をかけられました。「あれ、蜂の巣じゃないですか?」と指差す先、我が家の軒先には確かに蜂の巣らしきものができておりました。人間が刺されでもしたら一大事、これは一家の大黒柱たる自分が退治せねばならんなと思い、やるならば巣もまだ小さい今が好機と、洗車などに使う、ホースの先にトリガー的なアレがついたやつを引っ張りだし蜂の巣を水の勢いで落とすことにしました。水をなるたけ勢い良く当てるべく集中的に放水される形状のノズルを選択し、消防士よろしく放水を開始、蜂の巣はわずかばかりの根本を残し見事散り散りになったのですが、巣が落ちるとともに女王蜂と思われる蜂が一緒に地面に落ちてきたのです。身の丈4-5センチはあろうかという体躯は凶暴な黄色と黒のカラーリングで塗り分けられており、見るからに攻撃的な種であるようでした。放水攻撃が効いたか、女王すなわち蜂界のインリンオブジョイトイは地面をもがくように動いていますが、放っておけば活力を取り戻して援軍を呼びにいくかもしれん、援軍など呼ばれた日には滅多刺しにされるのは間違いなく「29歳会社員が自宅前で蜂に滅多刺しにされ変死体で発見」という事態になることは必至、となれば葬祭場やら香典返しやら何かと手配する苦労を家人にかけるわけにはいかんということで手加減無用、放水攻撃で弱っているかのインリンにとどめをさす決意。とっさに踏みつけてやろうかとも思いましたが、相手は弱っているとはいえ攻撃的な蜂、サンダル履きの脚を奴に近づけることはリスクが高かろう、窮鼠猫を噛むとも言いますし。思いとどまり、何か、と思ったところ手にしたるは奴の住処を破壊した放水ガン。この放水で息の根を止めてやることにいたしました。

 

こんな時、いつも思い出すのは往年のフッドムービー、メナス2ソサエティ(邦題は「ポケットいっぱいの涙」とかよくわからないタイトルがついていました)でして、コンビニに強盗として押し入ったギャングの少年2人組、片方がレジをこじ開けてつつもう片方に拳銃を渡し店主の殺害を命じます。拳銃を渡された方は怯えて命乞いする店主の様子に殺害をためらいますが、相棒の「ビビってんじゃねえ!さっさと殺れバカヤロウ」という怒号に「ビビってなんかいねえ!俺はやるぞ!やれる!バカヤロウ!ファックユー!ファック!ファック!」と殺人への躊躇を振り切るように叫びながら店主の頭に銃弾を打ち込む様、初めての殺人に伴う激情というものはかくも極めて厭な類の興奮なのだなと実感させられる、そんな場面なのです。

 

然して、インリンに向けたノズルのトリガーを一心不乱に引きながら、こなくそ!こなくそ!と叫び、過剰なまでに放水を続けた後、無惨な最期を迎えた女王蜂の亡骸を見下ろしながら、ふうふうと息を荒げる私なのでした。

金曜の夜、空で球を蹴るのを見る

 春眠暁を覚えずなんて言いますが、宵のふけるのをさえ覚えない私は、がために日中は常にまぶたが重いのです。近ごろはすっかり春めいて日なたは暑いですねなどと思っていると夕には急に気温が下がって、かなんよもうなどと独りごちる、そんな日々でございます。

 

 さてセパタクローというスポーツをご存知ですか?多くの人が思い描く、脚でやるバレーボール的なアレ、それです。セパタクローは日本ではマイナースポーツとして位置づけられるものですが、そのセパタクローを、渋谷O-EASTでDJ付きの派手な環境で見られるという何とも珍しい興業がございまして、そのvol.11回が去る金曜日に行われたので見にいきました。なにそんなのあるの知ってれば行きたかったよとおっしゃられる方、すみません、告知ができずに当日になってしまいまして、今度また是非。

 

 このイベント、名前を「蹴」といいましてこの春で5年目を迎えるのですが、私が出会ってからも既に3年と、その歴史は浅からぬ月日を数えるようになってきました。知人からこんなイベントあるよって教えられ、へえセパタクローってあの、セパタクローでイベントやるなんて面白いじゃないの、とか思っていたわけでありますが、ホームページを見て驚き至極、これは何やら凄いことだぞ、と。その時読んだのがこちらの記事でして、イベント産みの親である矢野さんという方のインタビューが載ってます。

 

 後から聞いた話ではありますが、マイナースポーツの常として、競技環境は決して恵まれない中、日本代表といえども遠征もユニフォームも自費で調達、海外遠征があれば仕事を休んでいかなくてはならないので就ける職業も限られていて、そんな中でもセパタクローというスポーツが好きで、日本のセパタクローをもっと高いレベルに上げようという気概で続ける人がいて、試合で結果を出せば何かが変わると思って世界でメダルを獲って、何かが変わるのを期待したけど何もかわらなかった。打ち破った壁の向こうに更に壁が待っていたこと。その絶望たるやかなりのものでしょう。やってもやっても変わらない状況に、続けていくことが難しくなった人もいたことでしょう。それでも続けていくことを選択した人たちがいたということなのです。何かを変えるためにやれることを模索して、模索して、新しい何かをひねり出した人たちがいたんです。

 

 世の中、面白いことをやる人たちがいます。中には、才能や人脈や資金など持てるものを上手につぎ込んで新しい何かを作り出す、そんな面白い人たちがいますが、その一方で窮鼠も猫を噛むように追い込まれた中で放ったパンチで、窮状を力づくで変えてゆく剛毅な者もあり、それはそれで何ものにも変え難い魅力をもっていたりするものでして。そんなセパタクローの世界も、このイベントが産まれて以降、少しずつ何かが変わりつつあると聞き、この3年間を傍から見ていた者としても幾許かの戦慄は禁じ得ません。ともあれ、間違いなく現在進行形である日本のセパタクローは注目してしかるべきかと思いますよ。