君は刻の涙を見る

我が子がこどもちゃれんじという通信教材を受講しています。毎月届く教材の中で、主人公のしまじろうという虎の子が成長しながらしつけを学んだりするのを見て子どもたちもそれに倣って成長するといった類のものですが、この春に幼稚園に入園する我が子のところに来た最新号ではしまじろう君もまた幼稚園に入るという描写がなされておりました。かように受講者たる子どもと足並みを揃えて成長していくしまじろう君ではありますが、はたと思いますのはこの春に幼稚園を卒業したお子様のところに届いた教材においてしまじろう君は卒園児として描かれているわけで、そのご家庭におけるしまじろう君の入園はとうの3年も前の話なのです。すなわちたった今の時点においても新入園児のしまじろう君がいる世界、卒園児としてのしまじろう君がいる世界は並行世界として同時に存在し、更に云えば生まれたばかりの赤ん坊としてのしまじろうのいる世界もあり、学年の数だけ並行世界は生成され続けているわけです。そしてその並行世界の中でしまじろう君は、生まれ成長し幼稚園に入園し卒園してゆくというカルマを繰り返す輪廻の中に身を落としていると言えます。
なにを下らないことを考えるか、そんなこと言っていないで早く歯を磨いて寝ろとおっしゃる御仁もおられるかと思いますがしばしご勘弁を、いやこんなことを思うに至る必然たる理由があるものです。しまじろう君には幼稚園に友だちがおりまして、とりっぴぃ(鳥・男)、みみりん(兎・女)、らむりん(羊・女)にしまじろう君を足した4人(あるいは4匹)が仲良しグループ然と物語を進行しているのを私は記憶しております。記憶しております、といいますのもこの1年ほど前、らむりんがキャラクターの再編、あるいは大人の都合の憂き目にあい、忽然と転校していった事実があるからです。もっともその事実は「既に幼稚園生活が始まっている」しまじろう世界での出来事であり、我が子の接するところのしまじろう世界では昨年時点で幼稚園世界は始まっていないため、その頃しまじろう君はらむりんとは知り合ってすらいません。さて我が子のところのしまじろう君も果たして幼稚園の生活が始まったわけですが、そこには初めて出会うお友達とのファーストコンタクトが待っていることになります。しかしどうでしょう、その仲間たちの中にはらむりんはいないのです。とりっぴぃ、みみりん、そしてその他の賑やかし要員の子どもたち。悲しきかな、一寸年上の稚児のところのしまじろう世界において、幼稚園の友として登場した後に転校というかたちで去っていったらむりん、我が子のところのしまじろう世界においては存在すらしていないのです。繰り返される輪廻の中で、らむりんという幼き羊は解脱を果たし、時空の間隙からするりと抜け出して星になってしまったようです。
春は別れの季節であり、同時に出会いの季節でありますが、輪廻の歪んだ因果律の中で出会わずして別れるという悲しい物語が紡ぎだされてもいたのです。

花の季節はいつも暖かさが足りない

盛者必衰というのが浮世の習いなれば、やれあれはもう時代遅れだとか、今年来るのは何だとか、流行の移ろいにはついてゆくのもやっとというのが常でありますが、そんな中にあって千年以上の長きに渡って日本においてブームが続いているものがありまして、それはもう、もったいをつけるまでもなく桜なのです。その花弁が薄桃色のファンシーな佇まいであることや、なにより一気に咲いて儚く散ってゆく期間限定感などが射幸心を昂らせているとも言えますが、現代日本においては春は出会いと別れの季節、何かが終わって何かが始まる、そんな変化に伴う悲喜こもごもが、意識無意識に関わらず桜の映像とともに刷り込まれているせいか、桜を見る度に心のどこかデリケートな柔らかな部分をつつかれているのでしょうか。然るに、もしも年度の始まりが銀杏の落ちるであったならば、そのデリケートな感情は銀杏の匂いとがっちり結合した状態で心に刻み込まれ、かの銀杏の香りも今よりも一層情緒的な何かになったりするのかもと思うこともあります。

さて桜といえば、学生時代に先輩が放った「桜の季節を体験できるのもあと50回とかなんだよ」という言葉が忘れられません。言葉にすればさもありなんというか、なんてことはないような意味あいの言葉ではありますが、それでもなぜかはっとさせられたのは、その先輩が日頃は刹那的に生きているように見受けられたがために突然余命を意識したような言葉に驚いたのかもしれませんし、なにより未来永劫に続くと思われた桜を鑑賞する悦びは自分の人生においては有限だということをはたと思い知らされたからなのかもしれません。